楽園のイヴ サンプル 二◯八九年。 脳波を用いてネットと人間を繋ぐブレイン・マシン・インターフェイスが開発された。通称『電脳』と呼ばれた仮想空間は、維持の難しさや導入にかかる金額等を鑑み、普及にはまだ時間がかかる見込みだった。 しかし、一部の国で福祉事業として機能し始め、それをきっかけに少しずつではあったが『電脳』普及のための足掛かりとして賑わいを見せ始めていた。 これは『電脳』初の会社『インフィニティ・ビヨンド』に在籍した一人の従業員の記録である。 ◆ 「おはようございまーす!」 元気な声が円形のロビーに響き、その場にいた者の視線が声のした方へと向く。茶色の髪に青い目、少年を思わせる背格好のアバターは、駆け足でロビー中央に設置された勤怠システムに自分のIDを通す。 「おはよう、ロックス。今日も元気だね」 頭上に『管理者』と書かれたプレートを表示したアバターが手を振る。ロックスと呼ばれたアバターが、手を振り返しながら駆け寄った。 「ハンスさん、おはようございます! 今日もよろしくお願いします」 「こちらこそ。早速だけど、キミに割り振りが来ている。要件はこのフォルダに格納済みだ。いつも通り、相棒は自分で決めてくれ」 「わかりました! あのっ、今日もその……イヴォータは、来てない?」 ロックスの問いに、ハンスは目を細めて、首を横に振った。 「残念だが、今日も来てないよ。そろそろ半年になるね」 「はい……ありがとうございます。行ってきます」 「ああ。いい一日を」 「ハンスさんも!」 ロビーからデスクルームへと向かうロックスに、ハンスが手を振る。ロックスは円形ロビーから『デスクルーム』と書かれたプレートをくぐり、大きな円形の空間へとやって来た。パーテーションで区切られた自分のブースにやってくるなり、ハンスに渡されたフォルダを開く。 「なになに、今日の依頼は――」 ここは脳波を用い、ネットと脳を繋いだ先にある仮想世界、通称『電脳』。その平面上にある会社『インフィニティ・ビヨンド』。従業員は世界で一万人ほど。従業員は皆、現実世界では何かしら心身に障害を抱えている人で構成されている。 『電脳』自体はまだ歴史の浅いシステムだが、接続すれば視覚や歩行、従来のネットでは再現が難しかった味覚や嗅覚までもが再現される。「『電脳』の方が現実だ」とまで言う利用者がいるほどの、夢のようなシステムだ。 しかし、既に普及しているネットと比べて、運用に莫大な経費と専門性の高い技術が必要になる。そのため国際法で厳重に管理されており、現在はどの国においても福祉分野でしか公的団体や政府からの利用にあたっての支援が受けられないのが現状だ。 そんな『電脳』上にある会社『インフィニティ・ビヨンド』での仕事は様々だ。しかしながら『電脳』を使用したという点で依頼料が高く、今はまだ大手企業や富裕層からの依頼が中心となっている。 個人からのオーダーは、ネットを経由した子供やペットのリアルタイムでの見守りや、AIの組んだスケジュールを調整する秘書業が主だ。 企業からのオーダーは、オリジナルのプログラムの開発・保守・維持、社内ネットワークの有人警備やオンライン上の不法行為の取り締まりなど――日々違う業務が『管理者』によって従業員の得手不得手を考慮され、振り分けられている。 「社内開発したプログラムのバグの調査と解決かぁ……うーん、苦手だ」 イスに背中を預け、足を浮かせたロックスがため息をついた。 「地道な作業、あんまり好きじゃないんだよなー。もっとこう……カッコよくて、ライブ感のある方が、ボクは好きなんだけどなぁ」 「あら、ロックス。困りごと?」 「う?」 背中を伸ばしながらぼやいたロックスに声がかかった。視線を持ち上げたロックスの視界に、一人の女性が映る。 白い肌に尖った耳。顔の真ん中を断つように垂れた長い前髪が、後ろで一つにまとめられたポニーテールに向けて伸びている。薄紫の髪は、緑色の切れ目に映えていた。 「おはよう、クリビア」 「おはよう」 驚いた様子のロックスの手に掴まれた資料を、クリビアと呼ばれたアバターが摘み、自らの目の前に持っていく。一通り目を通したクリビアは「なるほど」と頷いて、ロックスに資料を返した。 「確かにバグの調査は地道よね。でも再現できるって書いてあるけど?」 「書いてあるけど、その地道な作業がボクは苦手なんだよ」 項垂れたロックスの旋毛を見たクリビアが上品に笑い、豊かな胸を張る。 「その地道な作業が得意な私が、今日はまだフリーよ。どう? 私と組む気はない?」 「えっ⁉︎ 本当に?」 救世主とでも言わんばかりに、ロックスの目が輝いた。 「じゃなきゃ、誘わないわ」 「あ、ありがとう! クリビア!」 バグ調査依頼のタスクを開き、相棒の欄に『クリビア』の名前を選択する。『相棒が選択されました。』とポップアップが出て、続け様に依頼先のアドレスが表示された。ロックスは指でアドレスをなぞり、会社支給のセキュリティプログラムに通す。 『クリア』と表示され、二人が頷いた。 「よし、行こう」 「ええ、頑張りましょう」 ロックスがアドレスをタップすると、視界が拡がるように歪んで、社内とは違う景色へと変わり、歪みが直った。慣れない人なら気分を悪くしそうな移動だが、『電脳』ではこれが普通だ。 左右上に広がる黒い空間と、足元に広がるウェブページを見たロックスの目に、『株式会社イプシロン』という文字が飛び込んでくる。 「イプシロン……?」 「あら、ロックスは知らない? 株式会社イプシロン――日本のベンチャーで今、世界で注目されてる人工知能を開発してる会社よ」 ロックスが顔を曇らせ、何かまずいことを言ったかとクリビアが首を傾げる。 「あ、ごめん。その、ボク、人工知能って敵……商売敵だなって、思っててさ」 頬を掻きながら言ったロックスに、クリビアは「まぁね」と肯定を示す。 「確かに、私たちからすれば商売敵にはなるけれど、結局は人が重宝されるわよ。現にイプシロンは、自社開発のプログラムのバグ取りをしてくれって言ってきたんだから、人工知能の時代もまだまだね」 やれやれといった様子のクリビアに、ロックスも勇気づけられたのか、笑顔を見せた。 「そうだね。まだボクたちがいないとダメな時代だ」 笑顔になったロックスに、頷いたクリビアが足の下のウェブページに手をつく。そのまま手を上に持ち上げると、辺り一帯に青い線と階層、フォルダやデータの名前などが一気に溢れ出てきた。 「よし。私が資料の通りにバグを発生させるから、ロックスはログの確認と原因究明、解決をよろしくね」 「任せてよ」 クリビアが資料を読み、書いてある通りの動作でバグの再現を試みる。その横でウェブページ上で動いているプログラムのログを確認し、想定された挙動と違う挙動をしないか、ロックスが確認する。 クリビアが資料を元に、何回目かの動作を繰り返した時、ロックスが「あっ」と声を上げた。同時にクリビアの動きが止まり、ロックスの背後からモニターを覗き込む。 「出た?」 「うん……ほら、ここ」 「あらまぁ」 プログラム実行中のログに浮かんだエラーを元に、二人でコードを読んで問題がありそうな箇所を探していく。いくつも開かれたウインドウを、上へ下へとスクロールしていく様は、常人では目が追いつかない。しかし彼ら彼女らからすればいつも通りの作業で、実際にロックスは何かに気がついた様子で手を止めた。 「クリビア、ここ、なんか変じゃないか?」 ロックスの指した場所を、クリビアも確認する。 「おそらくここが原因ね。この辺りからコードのクセが変わってる。担当が変わったのかしら?」 首を傾げたクリビアの横で、ロックスが修正作業を行う。作業後、コードを再確認して、クリビアがバグの再現を試みる。バグが出たのと同じだけの回数、再現動作を試みたが、挙動にもシステムログにも異常はみられなかった。 「この程度のプログラムは一人に任せたほうが、こういうバグも少なくなるのに、どうしちゃったんだろ。いや、責任を追求しても仕方ない。今は事実のみを報告書に記載してっと……」 報告書を書くロックスの傍らで、開いて放置されていたウインドウを、問題がないか丁寧に確認しつつ、クリビアが消していく。 「納品前のチェックでも見逃されちゃったのね」 「ヒューマンエラー、だよね、これ。人工知能なら、きっと」 含みを持ったロックスの言葉に、クリビアが「そこまで」と強い口調で止めた。 「あなたが気にしているのはわかった。けどそれを見つけて、解決したのも人間よ」 「……ありがとう」 本部に戻った二人はハンスの元へ行き、報告書を提出。問題ないことを双方確認したあと、それぞれが別の依頼を受けて別れた。 とある資産家の飼っているペットを監視する仕事を任されたロックスは、六つのモニターを前にイスに腰を下ろした。頬杖をつきながら、ぼぅっとモニターを見る。 (クリビアがいると、心強いな……それに、楽しい) 目の前の仕事とは全く関係ないことを考えながら室内の温湿度を調整して、引き継ぎ書と共に次の職員に引き継ぐ。本部に問題ない旨を報告、帰路についた。 勤怠システムにIDを通してロビーへと出て、今日もよく働いたと背中を伸ばす。次いで辺りを見渡し、自分以外に誰もいないと肩を落とした。 (残念。誰かいたら映画でも誘おうと思ったのに) 一人で観てもつまらないと、ネットワークへと足を踏み出す。先ほど居た『イプシロン』のページとは違い、『電脳』に対応したばかりの大手検索エンジンは情報が多く、視界が騒がしい。上下左右に検索ボックスや検索履歴、話題のニュースや天気予報がひしめき、遠くには検索上位のサイトがアイコンとして羅列されている。そうやって溢れ出てくる情報には目もくれず、ロックスはサイトのアイコンの群れへと向かって歩き出した。 「やる事ないし、ネットサーフィンくらい、しててもいいよね」 趣味に「サイトデザインやプログラムの覗き見」があるロックスは、なんだかんだ言ってこの時間が好きだ。デザインもコードも、トレンドを取り入れることは、時代に乗り遅れないために大切だし、刺激になる。 小一時間ほど見て回り、そろそろ帰るかとロックスが踵を返した時だった。 とあるサイトのアイコンの傍らに、何かが引っかかっているのを見つけた。変なものではないかと、念を入れてセキュリティソフトを通しつつ、ノイズを伴ったアイコンを拾う。 「これって、メール?」 ノイズエフェクトのかかったアイコンの様子から、メールであろうことはすぐに理解できた。問題は、 「暗号化されてる。これじゃあ送信者も受信者もわからないな」 軽く触ってみたが単純な暗号化ではないらしく、解読するにしても相当な時間がかかりそうだ。 「でも、放置するわけにもいかないし……」 『電脳』内で発見した宛先不明のメールは、国際電子警察の管轄するポストに投函するのが義務付けられているのだが。 (義務は義務でも今はまだ、努力義務……なんだよねぇ) 拾ったメールは暗号化されている。それが、まるで誰かからの挑戦状かのように感じたロックスは、メールをポケットに忍ばせた。 (もしこの暗号化が解けたら、すごい発見があるかも) 根も葉もない期待を胸に、帰路に着く。『生きていく上で根拠のない自信は大切だ』と、昔どこかで聞いた気がした。 【続きは冊子でお楽しみください】