星屑の庭 サンプル【一部抜粋、削除等手を加えています】 東から昇る太陽が、雲一つない空と、眼下に広がる森を明るく照らしていた。針葉樹と広葉樹の混じる森の中にはところどころ草原があり、足の甲ほどに伸びたやわらかい草が朝露をまとい萌えている。 その森と草原を横断するように一本の川が、北から南へと流れていた。横幅は十メートルほどで深さは大人の太もも辺りまである。水は澄んでおり、川底の砂利や水草、泳いでいく生き物が視認できるほど。 いくつもの森と草原をまたぎ、枝分かれと合流を繰り返す川沿いには、いくつかの水車小屋があった。どの小屋も大きな水車が一つ、水をすくっては下流に落として回る。 更に川の主流を北へと遡ったところに一軒の、丸太を組んで造られた小屋が建っていた。煉瓦造りの煙突が、空へ向かって細長い煙を吐いている。 小屋の西には川を望み、北には玄関が。入って右手にリビングとキッチン、左手にベッドルームが備え付けられている。リビングとの境を麻布で区切られたベッドルームには二つのベッドがあり、間を二メートルほど開けて置かれていた。片方のベッドは掛け布団が綺麗に折りたたまれており、もう片方はまだ布団がこんもりと膨らんでいる。 そこへ一人の男が、部屋を仕切る麻布を避けて入ってきた。厚手の上着を羽織った、群青色の目の、同じ色の髪を腰まで伸ばした男だ。男は膨らんだベッドに腰掛けると、少し骨張った手で、膨らんだ布団を乱暴にならないように揺さぶる。 「アオイ、アオイ。起きなさい。陽が昇っていますよ」 「ん……ソクラス? うぅ……さむいよぉ」 布団の中からくぐもった声が聞こえてきて、ソクラスと呼ばれた男は口もとを緩め、続け様に布団を揺さぶる。 「あなたの上着はここに。リビングは暖まっていますし、お茶とスープの準備もできています。サンドイッチもありますよ」 呼びかけから十秒ほど経つと、布団がもそもそと動いて、枕元にひょっこりと黒髪が現れた。少し寝癖のついた短い髪をそのままに、ソクラスの方を振り返ると小さな声で「おはよぉ」とあくび混じりに挨拶する。 「おはようございます、アオイ。空気が澄んでいますから、今日もいい天気になりますよ」 「うん……うっ、さむい」 「ほら、上着を着て、靴を履いて。リビングに行きましょう」 頷くアオイに上着を被せて、さっと紐を留める。されるがままのアオイも上着を着ると、ベッドから足を下ろして厚手の靴を履き、先を行くソクラスに促され麻布をくぐりリビングへと足を伸ばす。 煉瓦造りの暖炉ではパチパチと音を立てて薪が燃え、部屋を暖めていた。部屋の真ん中に置かれた長方形のテーブルには、背もたれのついたイスが二つ置かれており、卓上には麻のランチョンマットが敷かれている。 「さ、顔を洗っていらっしゃい。お湯なので冷たくありませんよ」 「はぁい」 暖かい部屋に来て身体の強張りが取れたのか、アオイは言われた通りにキッチンに置かれた桶に駆け寄る。高さがあるので踏み台に乗り、桶にはられたお湯に手を浸す。ぬるめのお湯は冷えた手にちょうど良く、じんわりと温もりが広がってゆく。両手をお椀状にしてお湯を顔に運び、ぱしゃぱしゃと水音を立てながら顔を洗う。 「ふぅ」 水を顎に向けて垂らしながら顔を上げると、タイミングよく柔らかい手触りのタオルが包み込んだ。 「服が濡れると寒いですから、気をつけて。力を入れて拭かないように。終わったらこちらに腰かけてください」 「はーい」 言われた通りに顔を拭いて踏み台を降り、促されるまま丸椅子に腰掛けたアオイの顔に、大きな手が伸びて保湿作用のあるクリームが塗られた。目を閉じたアオイの肌に、クリームが触れると熱で溶けて馴染んでいく。ソクラスは額から頬、目元から鼻筋を下りて、口周りに塗ると「目を開けていいですよ」と告げる。アオイが目を開けると、ソクラスがクリームの缶に蓋をして戸棚にしまったところだった。 「さて、では朝ごはんにしましょう」 「やったぁ!」 振り返ったソクラスに言われた言葉に、喜び勇んでダイニングチェアに上がったアオイを、朝食が迎える。ランチョンマットの上に湯気の立つハーブティーと、甘い香りのオニオンスープ、サンドイッチが並んでいた。 サンドイッチはこんがりと焼かれたパンの間にレタスとトマト、キュウリ。そしてマヨネーズで和えたゆでたまごが一緒に挟まっている。ハーブティーはローズヒップをベースにペパーミント、少しだけジンジャーの入った、スッキリと目覚められるブレンドだ。 いつものメニューだが、アオイにとっては寒い朝の楽しみの一つである。手を合わせて「いただきます!」と元気に挨拶し、オニオンスープに手をつけた。両側に付いた持ち手を掴み、陶器皿のふちに口をつけて、息を吹きかけながらひと口啜る。オニオンの甘みとコクが口の中に広がり、目を輝かせて破顔した。 「あったかくておいしい!」 「よかった。スープはおかわりがあります。仰ってくださいね」 「うん!」 地面から浮いた足は、ぷらぷらと前後に揺れており、アオイがご機嫌であることを匂わせた。ソクラスも、美味しいと何度も口にし、スープを飲み干して、サンドイッチを頬張るアオイを見ながら、自身の食事に手をつける。メニューはアオイと同じもので、サンドイッチの量が少しだけ多めだった。 朝食をぺろりと平らげたアオイが、スープのお代わりを飲み干して「ごちそうさまでした」と手を合わせた頃。同じく朝食を食べ終えたソクラスも「お粗末様でした」と手を合わせ、首を垂れた。 「さ、片付けたらすぐに畑へ向かいましょう」 「えー? なんで?」 食べた後はゆっくりしたい、と頬を膨らませたアオイに、ソクラスはにこりと微笑む。 「おや、お忘れですか? 今日はアオイが此処へやってきて、ちょうど八周期の祝い日ですよ」 その言葉を聞いて、不服といった表情だったアオイが、パッと顔色を変えた。 「思い出した! 今日はお祝いするから、みんなでお昼食べるって約束してるんだ!」 「思い出していただけましたか。……と、言うことで、今日は早めの行動でいきましょう」 頷いたアオイはダイニングチェアから降りると、食べ終わった後の皿を持って流しへと足を運ぶ。流しの中に置かれた桶は二つ。少し濁りのあるぬるま湯の入った桶に、皿を浸してこする。すると、泡が食器を包んであっという間に汚れが落ちた。もう片方の水の入った桶で泡を洗い落とし、軽く振って水を切って、乾燥用のかごに置く。幼いながらに慣れた手つきだ。 「アオイはお皿を洗うのも上手ですね」 和かに褒め、頭を撫でるソクラスに、アオイは得意げに笑って応える。 「そうだよ! 私、できこといっぱいあるんだから!」 「なら、畑仕事もお手の物ですね」 ソクラスの言葉に、アオイは「うっ」と言葉を詰まらせた。 ◆ 朝靄のかかる中、家を出て川沿いに十分ほど歩いて南に向かい、一つの水車小屋を横切ってすぐのところに一本の支流があった。支流はなだらかにカーブして東へと向かい、幅は七メートルほど。南へ向かう橋もあったが、二人は支流の方へと足を進める。 歩く二人の様子は正反対だった。手には鎌を二本と竹で編まれた籠を背負い、軽やかに歩むソクラスに対し、背丈にあった小さめの竹籠を背負うアオイの足取りは重たい。 というのも、アオイはあまり畑の仕事が好きではない。なぜなら心身共につらいことが多いからだ。例えば夏季は、わら帽子を被って冷たい水を飲んでも、じりじりと照りつける太陽と、まとわりついてくる暑さがきつい。冬季は寒風や雪が容赦なく体力を奪いにくるうえ、冬季仕様の服は暖かさを考えるあまり、動きにくいのが煩わしい。 中でもアオイが一番に苦手とするのは、秋に落ちた葉っぱなどを半期ほど発酵させ肥料として撒く、土づくりのこの時期だった。とにかく臭いに慣れないので、畑仕事の苦手意識を深める一助となっていた。 「……ソクラスだけでいけばいいのに」 畑についた後の作業を考えると、自然に否定的な言葉が口を突いて出る。ソクラスはと言えば、クスクスと笑って「苦手ですか?」と問う。アオイは大きく頷いてため息を付いた。 「だって、すごい臭いなんだもん。畑に必要なのはわかるけど、私、あの臭いとても苦手」 落ち込むアオイの頭を撫で、歩くこと十五分ほどで開けた場所にでた。周りを川と木々に囲まれた畑は広く、ところどころ幅の大きな道と小さな道が植物を区切るように敷かれている。そこには背丈や葉っぱ、枝の種類などが違うさまざまな植物が、人の手により規則正しく並んで生えていた。 畑の中央には農耕具が置いてある物置小屋が建っていたが、今日はそちらに足を運ぶ事はなく、更に畑の端に沿って進む。 少し歩くと朝靄の向こうに人影が見えた。二人とも性別は女。一人は癖のある真紅の髪を後ろで一つに結った、凛々しい顔つきの女性だ。服装はソクラスと同じものだったが、帯やアクセサリーの色と形が異なっている。 もう一人はビリジアンの目と、すみれ色の真っ直ぐな髪をした、十代半ばの少女であった。前髪の左側を三つ編みにして耳の後ろで結んでいる。服装はソクラスや隣に立つ女性とは違い、白のワンピースを着て、腰回りをパステルグリーンの腰布で結った可愛らしさのあるものだ。二人とも、羽織っている上衣のせいで、本来よりも膨れて見える。 「イオリ! ニイナ!」 二人揃ってアオイの声に顔を上げ、手を振って応えた。すでに作業に取り掛かっていたようで、腰にくくり付けた竹籠に収穫された野菜が入っている。駆け出したアオイを止める事なく、ソクラスは後ろを歩きながら、凛々しい顔つきの女性、イオリに手を振った。少女、ニイナに駆け寄ったアオイは勢いを落としてから抱きつくと、ニイナの手が優しく頭を撫でる。 「おはよう! ニイナ!」 「おはよう。アオイ、今日も元気ね」 「えへへ。今日は特別な日だもん!」 そう言ったアオイが歯を見せて笑うと、ニイナもつられて笑う。二人の隣で微笑ましく見ていたイオリが、アオイに追いついたソクラスに「おはよう」と、笑いながら挨拶した。 「おはようございます、イオリ」 「あら? 朝からお疲れ? 悪いけどまだ早いわよ。今日あるイベントの、まだ三分の一も終わっていないのに」 ハキハキと喋るイオリに、ソクラスは「それもそうですね」と苦笑いしながら答えると、鎌を取り出す。一本をアオイに手渡し、背負っていた竹籠を地面に置く。次いで、イオリが身に着けていた竹籠を、アオイの肩に斜めにかけると「では」とソクラスと共に歩きだした。 「私たちは向こうで土づくりをするから、二人で収穫を終わらせちゃって! 何かあったら呼ぶこと!」 「わかりましたぁ!」 手を振って応えたニイナにイオリが手を振りかえして、アオイに親指を立てる。アオイも大きく頷いて、鎌を手にニイナの隣で作業を始めた。わずかに湿った果実の熟れ具合を見てヘタの少し上の部分を鎌で切り落とし、丁寧に籠に入れてゆく、単調な作業が続いた。 地道な作業を続けることおよそ一時間。太陽が十五度、西へと動いた頃にイオリが戻ってきて、二人に声をかけた。二人とも、三つ目の籠を満たしていた最中だったが、イオリの声に顔を上げて応える。 「二人とも、そろそろ行くよー!」 声を張りながら駆けてきたイオリは籠を一つ背負い、一つを手に持つ。後からやってきたソクラスにも同じ様に一つを背負わせ、一つを持たせた。ソクラスはイオリとニイナに向き直ると頭を下げ、礼を言う。 「二人ともお疲れ様です。だいぶ収穫が進みました。ありがとうございます。お昼前に一旦、私の小屋に戻って休みましょう」 賛同の意を表した二人と共に、アオイはソクラスと来た道を歩いていた。 「アオイったら、畑より家の方が好きなのね」 行きとは違い、機嫌良くニイナの手をひきながら足早に家路に付くアオイを見て、声を殺して笑うイオリに、ソクラスが苦い表情をする。 「本当は、もっと畑仕事に親しんでいただけると嬉しいのですが」 「今は難しいわよね。私も、テオには手を焼いたけれど、今ではあんなに立派に育ってくれた。アオイだって、いずれはあなたの力になってくれる。心配しなくても大丈夫よ」 イオリの励ましに、ソクラスは後ろ向きな心を前に押されながら家路を歩く。徐々に見慣れた小屋が見え始めた。 ◆ 一時間ほど経った頃。四人は畑より更に南に向かうと支流の橋を渡り、さらに南に歩き、開けた草原に来ていた。所々に見事な広葉樹が生えて、大きな日陰が出来ている。まだ青臭さの残る芝の上に麻でできたシートを広げ、四隅に重しを置くと、荷車を横に付けて大きさの違うバスケットを中央に三つ置く。 一つはさまざまな具が挟まったサンドイッチ。二つ目はコーンスープと野菜のスープが鍋ごと入っており、一緒に木製のカップとスプーンが備えられていて、三つ目のバスケットにはデザート用の果物が所狭しと詰まっていた。 「うわぁ、美味しそう」 バスケットの中のサンドイッチを眺めるニイナの背中から、アオイが「この卵のサンドイッチはね、私も手伝ったのよ」と胸を張る。「すごいじゃない」と頭を撫でられたアオイは、少し照れくさそうにはにかむ。 「畑仕事より料理の才能の方があるのかも、ですね」 やわらかい声にアオイが振り返ると、ニイナと瓜二つの少女が立っていた。歳はニイナと同じ程、髪の色も目の色も同じで、右側の前髪が三つ編みに結われている。 「あらノンナ、早かったじゃない」 「ふふふ。アオイの八周期記念だもの。久しぶりにみんなで集まれるのよ? 私、とても楽しみだったの」 ノンナが持っていたバスケットを開けると、中にはミルク瓶が三本、入っていた。「今朝の搾りたて」と微笑むノンナは、ニイナと同じ顔だというのに、何処となくやわらかい空気を纏っている。 「あはは。なごやかだねぇ」 そんな三人を木の上から見下ろし、微笑む男がいた。名前をユリウスと言い、歳は二十歳半ばほど、目の色は青緑色で少しタレ目。猫っ毛の金髪をところどころ三つ編みにしていて、結び目についたオレンジ色の鳥の羽根飾りが印象的だ。少年のような笑顔の男は、下に居るソクラスとイオリに交じり「いい子に育ったね」と、アオイを褒めた。 「当然よ。この慎重者がのびのびと育て上げたんだもの」 「のびのびと、は受け入れますが、慎重者は余計です」 眉根を寄せたソクラスに、イオリが声を出さずに笑う。その様子を見ていたユリウスは「間違ってはいないと思うけどなぁ」と笑った。 「ところでガーランドとテオはまだかしら? いい時間だし、そろそろパーティを始めたいのだけど」 ユリウスが持ち寄った遊戯セットを開きながら、イオリが言う。中にはボードゲームや皮を張り合わせた大きめのボール、直径二十センチほどの輪にネットのついたラケットとボールのセットなど、様々な遊び道具が入っていた。 「あの人、時間にルーズなところがあるからねぇ……おや、噂をすれば」 木の上に居たユリウスの指した方向を見れば、二人の男性の影があった。一人は褐色の肌に銀色の髪をした十代後半の青年で、紅色の瞳を細めながら、バスケットを片手にこちらに手を振っている。もう一人は少し歳のいった男で、もみあげから続く顎髭が特徴的な、深緑の目をした男だ。ハキハキとした様子の青年とは正反対に、こちらは目を擦りながら歩いていた。 その様子を見たソクラスとユリウスは「またか」と苦笑いし、イオリは眉を顰める。 「もうガーランドってば! テオを煩わせないでって、あれ程言ってるのに」 「あなたに似て、頼れる人に育ったと言うことですよ」 「だったらいいのだけど」 ソクラスのフォローに気を取り直したイオリが、駆け寄ったテオと呼ばれた青年を抱きしめて「久しぶりね」と挨拶する。テオもバスケットを持ったまま、空いた手でイオリの背を抱くと「久しぶり」と返した。 「元気そうで何よりよ。で? ガーランドは今日もお寝坊さんってところかしら」 「あはは……まぁ、昨晩も遅くまで外に出てたから仕方がないさ。事情があるみたいだから、あんまり責めないでやってくれよ」 ガーランドの肩を持つテオが面白くないのか、イオリは「そう」とつっけんどんに返すと、テオの手からバスケットを受け取る。中には手製のブランケットが折りたたまれていた。色使いはカラフルだが、色合いがパステルなので落ち着きを感じる、綿でできた大判のブランケットだ。 「この日のために、ガーランドの育てた綿を、俺が編んで染めました。ぜひ使ってやってください」 ソクラスは、イオリから手渡されたブランケットを広げて「いい出来ですね」と手触りを確認すると、テオに向き直る。少しだけ、テオが緊張した面持ちになった。 「素敵なブランケットを、アオイの為にありがとうございます。大切に使わせていただきますね」 「はい! 使い倒してやってください!」 元気よく返事を返したテオを見て、イオリとユリウスが顔を合わせて笑う。少し離れたところでは歩みの鈍いガーランドが、アオイたちに囲まれているのが見えた。 「では。皆さんお揃いですし、始めましょうか」 微笑むユリウスに、ソクラスとテオが頷いてシートの方へと歩き出し、イオリがガーランドに絡むアオイたちに「始めるわよー!」と声をかけた。声に振り返ったアオイたちが、ガーランドの手をひいて木漏れ日の中に集って行く。 それからはひたすらに楽しい時間が続いた。ガーランド持参のオレンジジュースや、搾りたてミルクで乾杯して、いつもより力の入ったお昼ご飯をみんなで囲んで食べた。お腹を満たした後は互いの近況報告などをして、持ち寄ったお土産を分け合い、足りない物を補い合う。 昼下がりになると各々が自由に動き出した。誘い合ってボールゲームに興じる者が居れば、昼寝に勤しむ者、花冠を結いて乗せる者。ボードゲームで残りのデザートの林檎を誰が一番多く食べられるかを決めてみたりと、とにかく自由に振る舞い、おもいおもいに楽しんだ。 陽もだいぶ落ちた頃、パーティはようやく解散へと向かい始めた。散らかしたボードゲームの駒を拾い、汚れたボールを川で洗ってはバスケットに収めて、草の上にひいていたシートを折り畳む。 「にしても、アオイもデカくなったな。つい最近までお前に引っ付いて離れなかったのに」 「ちょっと、ガーランド。いつの話をしているの? あなたの中でアオイの成長止まってるわよ」 イオリの呆れ声に、三人が屈託なく笑う。日々仕事に追われる護人だが、この特別な日だけは仕事のことを忘れられた。それ程までに幼子がやって来た日を祝うのは大切な行事で、皆が気を抜ける日でもある。 当のアオイは遊び疲れたようで、荷車の上でプレゼントされたばかりのブランケットに包まって寝ていた。ニイナの背中には同じく寝入ったノンナが背負われていて、ユリウスがソクラスから受け取った荷物を手に微笑む。 「久しぶりにこんなに充実した時間を過ごせたよ。新鮮な野菜までもらえて、嬉しい限りだ。本当にありがとう」 「皆さんへの、ほんのお礼です」 ソクラスは護人の面々に顔を向け、アオイの為に時間を割いてくれたことに対し、改めて礼を言う。対する護人たちは「八周期おめでとう」と口を揃え、ソクラスも「ありがとうございます」と返した。 「じゃあまた近いうちに会いましょう! ユリウス、明日はよろしくね!」 同じくソクラスから受け取った野菜類を背負ったイオリが手を振る。呼びかけられたユリウスは「わかっているよ」と返した。 「何か約束が?」 明日に影響がないかと案じたソクラスが問えば、ユリウスは「ああ」と落ち着いた口調で答える。 「久しぶりに陶器を焼くから一晩付き合えって言われててね。近日で、あまり風のない日がちょうど明日だったってわけさ。……おっと、謝らないでくれよ。君は心配し過ぎだし、すぐに頭を下げる癖がある。その悪い癖はやめた方がいい」 ソクラスの行動を見越したような言葉に、ガーランドが腕を組み「だな」と頷く。 「祝い事の後だからこそ、乗り切れる仕事ってのもあるもんだ。ってかお前、その癖まだ抜けてねぇのか?」 眉根を寄せたガーランドに、ソクラスは声を詰まらせる。確かに、昔から彼に「それは悪い癖だ」と叱られてはいた。何よりソクラス自身に自覚があって、自分の悪い癖を理解はしているのだが。 「今までこうして生きて来たのです。簡単に抜ける癖ではありません」 低い声で言うソクラスに二人はため息を漏らす。真面目なソクラスの事だ。何事にも真摯で在ろうとする姿勢がなかなか抜けないのは、付き合いの長い彼らにはよくわかっていた。 (だからこそ、もっと打ち解けてもらいたいもんなんだがな) 口にはしない言葉を飲み込み、ガーランドはソクラスの肩を叩くと「あんま気負うなよ」とだけ言って、荷物をまとめ終わっていたテオと帰路につく。「また近いうちに!」と挨拶をしたテオに二人は手を振る。 「さて、僕たちも帰ろうか」 ノンナを背負ったニイナと、荷物を手にしたユリウスが別れを告げて、残ったのは荷車で眠るアオイとソクラスだけになった。先程までの賑やかさが嘘のような空間に、若干の寂しさを覚えたソクラスは、忘れ物がないか今一度あたりを見渡す。何一つとして忘れ物がないのを確認してから、荷車を引いて歩き出した。 それから十分もしないうちに陽が落ちて空は暗くなり、満天の星と月が草原を照らし、さほど暗さを感じさせない川沿いをソクラスは歩いていた。発光器官を有する小さな虫、月光虫が水辺に集まり、幻想的な空間を作り出す中。ソクラスの頭の中では、ガーランドとユリウスに言われた言葉が、ぐるぐると巡っていた。 その度に胸の中にかかる靄を、どうしたものかと、立ち止まって夜空を見上げる。輝く星たちは、ひとつひとつが想像もできないほどに大きく、気の遠くなるほど遠い存在なのだと知ったのは、いつだったか。「人の悩みというのは、星を見上げれば些末なことだと理解できる」とは、幼い頃ガーランドから教わった言葉でもあった。 (彼らが間違っているとは思わない。彼らも、ああは言っているが、私のことを心配しているからこその言葉だと知っている。私のことを尊重してくれているということも、理解している。……大丈夫。私は、私だ。同じ過ちは、決して……) 瞼の裏に星空を焼き付けるように、固く目を瞑る。震える手を握り締め、瞼を開く。夜空には変わらず星が輝いていて、少しだけ安心した。 止めていた歩みを再開させると、橋が見えてきた。ここを渡れば小屋はすぐだ。早く小屋に戻り、アオイを硬い木の板の上でなく、ふかふかの布団に寝かせてやらねばと足取りも早くなる。 川沿いの小屋に近づく荷車とソクラスの姿を、いつまでも星々が見ていた。 ◆ 月が南の空を泳いでいる頃。 八人が集まり、パーティを開いた草原に一人の少女が立っていた。格好はニイナやノンナと同じ、白のワンピースを着ており、腰回りをパステルブルーの布で留めている。髪色は黒で長さは腰よりは短く、肩よりは長い。色白な肌のせいで亡霊のようにも見える少女は、木の下まで歩いてくると腰掛けて、葉の向こうから覗く星空を見上げた。 「また、会えるなんて楽しみ。すごいサプライズになりそう……きっと驚くだろうなぁ」 鈴のような声で、昔を懐かしむように微笑む女性の、青緑色の瞳が細まる。と「ぐぅ」と腹の虫が音を立てて、女性は思わず自分の腹を見た。 「うーん……腹が減っては戦はできぬって言うしなぁ。あんまり変な時間に食べたくないんだけど、仕方ないか。えっと、確か、あっちだったっけ? ……ま、歩いていればそのうち着くか」 立ち上がった少女は草をはたき落とすと、ゆっくりと歩き始める。楽しそうな足取りは森の中へと消えていった。 ◆ 時はさらに進み、月も西の空に沈みかけた頃。 ソクラスたちの小屋から離れた森の中では、闇夜には目立つ光がちらついていた。最初は光の粒が散っただけだったが、少ししてから強い光が集まって、人の姿を形成すると瞬時に消え失せた。人影は空中に現れた姿勢をそのままに、草の上に仰向けに倒れると「はぁ」と息を継ぐ。 顔は目深に被ったフードでよく見えない。性別は女性、年齢は若いということがわかるくらいだ。女性は大きく息を吸って、吐いてを繰り返して、乱れた呼吸を整える。しばらくしてやっと落ち着いた頃、フードから覗く金色の目が空を見上げた。 「ああ……綺麗」 息を吐くように紡がれた声は高くもなければ低くもない、聴き取りやすい声。やがて呼吸を整えながら星空を見上げていた女性は、立ち上がろうと身をよじり、腕を草の上につく。だがうまく力が入らず、小さく唸りながら肩から崩れ落ちてしまった。うつ伏せに倒れた女性は、何とか体勢を仰向けに戻すと「駄目かぁ」と掠れた声で残念そうに呟いて、諦めたように目を瞑る。 しばらくして、小さな寝息が聞こえてきた。辺りを月光虫がひらひらと舞い、草が風に撫でられる音だけが聞こえている。静かな夜が更けていく。 そして夜が明けた。 この日は、前日とは変わって生憎の曇り空。風は無く、湿っぽい空気が身体にまとわりつくような、あまりよい天候とは言えない日だ。しかし畑仕事に休みはない。今日も今日とて、二人は陽と共に目覚め、サンドイッチとオニオンスープの朝食を摂ってから畑に来ていた。 昨日の楽しかった気分はどこへやら。口にはしないものの、アオイは不満そうな表情を時折見せては、収穫の終わった苗を引っこ抜く作業を黙々とこなしていた。ソクラスもアオイの様子には気がつきはしたが、本人が何も言わないのであえて触れずに作業を続ける。 雲の向こうの太陽が南の空を指した頃。二人は畑の脇に生えている木の下で昼食を摂ることにした。メニューは朝とあまり変わらず、いつもの日常が戻ってきたと、ソクラスは感じていた。一方のアオイは昨日のパーティがよほど楽しかったのか、どことなく不満だといった空気が抜けきっていなかった。 (八周期を迎えたとはいえ、まだまだ子供ですね。……そんなすぐに大人になられても困りますが) 目立った会話もなく昼食を終えると、アオイは眠たそうに目を擦り、やがて草の上に横になり寝てしまった。ソクラスは上衣を脱ぐと、アオイの上にかけて立ち上がり、畑へと足を進める。 「さて、と。アオイが頑張ってくれたので、あとは土をひっくり返す作業だけですね。ついでに、他の区画の収穫も進めてしまいましょうか。暑くなるこれからの季節は、特に収穫に追われますから」 ソクラスは物置小屋から鋤を持って、先ほどまで作業していた区画へと向かった。 二時間も経たない頃。アオイが目を覚ますと、変わらず曇り空が目を飛び込んできた。あまり嬉しくない天気に、自分の気持ちを重ねては「あーあ」と残念そうに口を尖らせる。 「昨日は楽しかったな。またみんなに会って、いっぱい遊びたい。まいにち畑で、疲れちゃうよ」 仰向けの姿勢から身をよじり、顔を横に向けた。ソクラスの上衣を引っ張って、目を閉じようとしたその時。草の上に小瓶が落ちていることに気が付いた。 瓶の大きさは五センチほど。蓋の部分は地金になにやら装飾が施されており、先の方に紐が付いている。 「なんだろう?」 拾い上げて空にかざすと、角度によってキラキラと光る粒がわずかに入っているのが見えた。数分前までの悲しい気持ちが吹き飛んでしまう、なんとも不思議で綺麗な光景だ。 「うわぁ、お星さまみたいできれい。……でも誰のだろう? こんな瓶、今まで見たことない。ソクラスの? それともイオリかな?」 どれだけ思い返しても二人がこの瓶を持っていた記憶がないアオイは「うーん」と首を傾げた。同じく、ガーランドやユリウス、テオ、ノンナ、ニイナ。思いつく限りの顔を浮かべるが、持っていたところを見たことはない。 「誰かの、たからもの……かなぁ」 身近に所有していた人は記憶になかったが、アオイは何となくそう感じて「誰か」を探すように、瓶を持ったまま立ち上がり辺りを見回した。畑の外周は見慣れた樹木が立ち並び、手前を川が流れている。畑の方も目立って変わった様子はない。 「……誰もいない」 暫しの沈黙の後、アオイが瓶を元の位置に置こうとした時。ソクラスが顔を出して「アオイ?」と名前を呼ばれた。すっかり一人だと思い込んでいたアオイには突然の出来事で、体を震わせて屈みかけた背中をピンと伸ばす。手には小瓶を持ったままだ。 「ひゃあっ⁉︎」 「も……申し訳ありません。驚かすつもりはなかったのですが」 頭を下げたソクラスに、アオイは「大丈夫」と答えながら、慌てて小瓶をポケットにしまう。何故だかわからないが、小瓶をソクラスに知られてはいけない気がしたが故の、行動だった。 「あれ? もう続き終わったの?」 洗われた鋤を見たアオイが聞けば、顔を上げたソクラスが「ええ」と頷いた。残念ながら、アオイが畑仕事の中でも好きな、土の天地を替える作業は終わってしまったらしい。参加できなかったことを少し、残念に感じながら「そっか」と返事をした。 「アオイが頑張ってくださったから、今日一日で作業を終了できました。ありがとうございます」 にっこり微笑まれて言われてしまうと、アオイも返す言葉の中から不平不満が消えてしまう。「どういたしまして」と胸を張りながら言って、同時にこの後の時間をどうするのか、と言う疑問が湧いてくる。ソクラスに問えば、彼は確定事項と言うように答えた。 「本日の目標は達成していますので、今日はもう帰ります。帰ったら、昨日とは違うボードゲームをして、それから夕飯にしましょう」 「え! いいの?」 目を丸くして驚いたアオイに、ソクラスは頷くと、アオイの頭を撫でる。 「あなたが頑張ったから、ですよ」 褒められた事実を素直に受け取ったアオイは「じゃあ早く帰ろうよ!」と、元気よくソクラスの手をひいた。 「鋤を物置小屋に返してきます。アオイは荷物をまとめていただけますか?」 「わかった」 頷いて、ソクラスの上衣を拾い上げたアオイに「すぐに戻ります」と伝える。ソクラスが物置小屋に行ったのを見送って、アオイはポケットに手を入れて小瓶を取り出す。変わらず手のひらに存在している小瓶を見て「夢じゃない」と小さく呟いた。 しばし小瓶を見つめていたアオイが、何かに気がついたように、顔を上げる。 「……誰?」 視線を感じた、気がした。ただ静かに見られているという感覚。なんだろうとアオイが考えた時、ソクラスが土を蹴る音が聞こえて、慌てて小瓶をポケットにつっこんだ。 アオイの中では、小瓶を元の場所に戻すという選択肢は、すでに失われていた。というのも、この状況でソクラスに見つからないように戻すことが、困難になった為だ。ポケットから手を出したと同時に、ソクラスが姿を見せる。 「アオイ、荷物は」 「まとめたよ!」 慌ただしく答えたアオイに、ソクラスは首を傾げたが、アオイは誤魔化すように笑顔で「ほら、行こうよ!」と促す。ソクラスの中には少しだけ違和感が残ったが、アオイの振る舞いを見て、詳しく聞く程のことでもないだろうと結論付ける。 「私、ボードゲームはあれがやりたい! えっと、転がして進めるやつ!」 「……どのボードゲームで遊ぶかは、帰ってから決めましょうか」 「うん!」 楽しいという感情を全面に押し出すアオイは、先程のどんよりとした空気を全く感じさせない。気持ちの切り替えが早いのは良いことだと、ソクラスは上衣と昼食を入れていたバスケットを持って、小走りで先を行くアオイを追った。 ◆ いつもより早く小屋に戻った二人は、先に夕飯の準備を済ませることにした。今日のメニューは卵と野菜のミルク煮、大きめのロールパンとデザートに先ほど畑で採れた苺が並ぶ。 部屋に明かりを灯し、アオイお目当てのボードゲームを引っ張り出して、ダイニングテーブルに広げる。ハーブティーを淹れたソクラスが席につくと、ゲームの準備はすでに整っていた。 その後、二人は一時間ほどボードゲームを楽しんだ。勝敗は僅差でアオイの勝ち。デザートの苺が二つ増えた。 部屋の明かりを消し、寝衣に着替え、布団に入るころ。アオイは上手いこと小瓶を、服のポケットから枕の下に隠していた。ソクラスに不自然さを悟られないよう、いつものように布団に入ると、恒例のあることをねだる。 「ねぇソクラス。いつものお話しして」 「いいですよ」 部屋の明かりを消して、ベッドサイドテーブルの蝋燭だけが揺れる中、ソクラスは『いつものお話し』を始めた。 ――むかしむかし、まだ世界という概念すら存在しなかったころのお話です。そこは闇と光が空間を二つに分ち、終わりのない地平線が永遠と続いています。その地平線上には五柱の神がおりました。それぞれ炎、土、水、風、時を司る神様です。 あるとき、時を司る神は言いました。 「四柱の神々よ、そして闇と光よ。この何もない空間には変化がなく、私は飽いてしまった。そこで提案だ。ここに一つ、星をつくり、私に星の時を見守らせてはくれまいか」 闇と光はすぐに星をつくろうと答え、四柱の神は互いに意見を出し合い、一つの星をつくりました。広大な大地は火の神と土の神がつくりあげ、豊かな海を水の神がもたらし、風の神が一息吹けば、星は瞬く間に命にあふれました。大地には草木が萌えて、海には様々な生命体が姿を現します。こうしてできあがった青い星は、神々から見れば小さなものでしたが、時の神はたいへん喜びました。 最後に時の神は、星に時間という概念をつくりました。時間という概念が出来上がったことで、星には夜と昼が。星に産まれたありとあらゆる生命には、生と死という概念と多様性が生まれます。 それからしばらく経った頃。星の発展を見ていた時の神は、自らのもたらした時間という概念により、様々に表情を変える星を見て「私もこの星の営みに溶け込みたい」と願いました。 すると、時の神の姿はたちまち崩れ落ち、闇に光を反射して輝く、無数の星となってしまったではありませんか! 自ら願いを叶え、無数の星となり散ってしまった時の神を、四柱の神が元の姿に戻すことは叶いません。 四柱の神は悲しみのあまり嘆きました。けれども自らの願いを叶えた時の神は、無数の星となり散ってしまったことを、すこしも悲しんではいませんでした。 『私は大好きな皆のつくってくれたこの星とともに在る事が叶って、とても幸せだ』 無数の星から聞こえる、時の神の声がそう囁きます。その声を聞いた四柱の神々は話し合い、この星と時の神のためにあることを決めました。 四柱の神が協力し、時の神が寂しさを感じないよう、他にもいくつかの星をつくったのです。自ら光る大きな星を光の力を借りてつくり、さらに大きな星の光を反射して闇に浮かぶ、でこぼこの星をつくることで、夜に輝く時の神に『あなたには私たち、四柱の友がいる』というメッセージにしたのです―― 「こうして私たちの天上には、今も太陽と月と、幾億もの星が輝いているのでした。おしまい」 話し終わったソクラスがアオイを見ると、枕に半分ほど顔を埋めて気持ちよさそうに眠っていた。覗く穏やかな寝顔に、ソクラスの口元が緩む。 「寝てしまいましたね」 そんなアオイを少しの間、優しく見守っていたソクラスも、欠伸を一つ零してから「私も寝ましょう」とアオイのベッドを立つ。数歩先の自身のベッドに腰掛け蝋燭を吹き消すと、いよいよ部屋は暗くなる。 「願いを叶えた神は星となり散った、か」 呟いて、四角く切り取られた空を見上げた。曇りだった空はいよいよ雨が降り出してしまっていて、ぱたぱたと雨粒が窓硝子を叩いている。 「……私とて、叶うのなら……。いえ、やめましょう。今さら、意味のないことです」 しばらく雨の流れていく窓硝子を見ていたソクラスは「ふぅ」と息を吐いて、ベッドへと体を滑り込ませた。ただ雨音だけが響く静かな夜が更けていく。 ◆ 薄暗い部屋の壁沿いに、木製の長テーブルが一つあった。上には二つほどの燭台が小さく火を灯していて、その周りにいくつかの道具が無造作に置かれており、揺れる炎の光を反射している。音もなければ、風の流れも感じられない。息が詰まりそうな不気味な部屋だ。 (私、知ってる。この部屋、見たことある。……でも、ここはどこ? 誰の家?) 見たことの無いはずなのに、知っている場所。その部屋に『私』は寝かされていて、意識はあるのに、何故か身体が上手く動かせない。声を出そうにも口が開けないのが、もどかしい。 (誰か、誰かいないの? 暗い、怖いよ……一人は嫌。……あれ? ――? どこにいるの?) 人の気配も感じられない、誰も入ってこない。静まりかえった薄暗い部屋の中、不安だけが募っていく。しばらくして耳鳴りが始まり、ぎゅう、と手を固く握りしめ―― ふっ、と意識が浮上する。 目を見開くと、闇が目に飛び込んできた。反対側を見ればソクラスの寝息が聞こえる。固く握った手を開き、今までみていたものがあまりにも現実味のある夢だと気がつく。 (怖かった……暗くて、寂しくて、悲しかった) 闇に遮られて見えない天井を見つめ、必死に乱れた呼吸を落ち着ける。荒い呼吸のせいか、夢のせいか。正解はわからないが、目尻からは涙が溢れていた。 (どうしてこんなに怖い夢をみたの? 別に、何か怖いこととかがあったわけじゃないのに……) 昨日も今日も充実した、楽しい一日であったと考えながら、服の裾で目元を拭う。二日間続いていた温かい時間と、夜の静けさの中に見た夢の落差に、不安という感情が溢れ出てきた。 (眠らなきゃ……でもまた、あの怖い夢を見たらどうしよう? ソクラスはもう寝ちゃってるし) 窓の外はまだ暗く、雨雲のせいで月明かりさえ入ってこない。しとしとと雨音だけが部屋に響いて、鼓膜に届くたびに、氷の中に一人閉じ込められたような気分になる。 堪えていたが、やがて喉の奥がぎゅっと締まった。鼻の奥がツンとして、濡れてくる目元を誤魔化すように、枕に顔を埋める。枕を抱えるように潜らせた腕に、何かが当たった。 (なに? ……あっ! 瓶……?) 手探りで枕の下にあった瓶を握り、取り出す。すると手の中が淡く光っているように見えて、ゆっくりと握った手を開く。 (えっ?) アオイは、目に飛び込んできた光景を信じられずにいた。部屋に光源は何一つないはずで、暗闇に慣れなければ部屋の形を認識することすら難しいはずなのに。 (砂が、光ってる!) 薄ぼんやりとだが、わずかに入った砂は、たしかに光っていた。瞬きをして、何度も瓶の中を見つめては、本当に砂が光っているのだと確認しては目を見開いた。だがそれも一瞬で、すぐにアオイの目は細められ、口元が緩む。 (……ふしぎ。なんだか、あたたかい。見ていると、気持ちがおちついてくる) 見つめているだけで、つい先程までの、氷の中に閉じ込められたような、悲しさと寂しさが溶けていく。少しだけ不思議で、けれどちっとも怖くない、あたたかな光景。 (これなら怖くない。……大丈夫) 根拠などないがそう感じて、枕の下に瓶を握った手をさしこみ、頭を乗せる。おまじないのようなものだったが、心が落ち着き、和らいでいくのをアオイは感じた。 「……おやすみなさい」 暗く、雨音だけが聞こえる部屋の中、小さくつぶやいて目を閉じる。おまじないのお陰かは分からなかったが、その夜、怖い夢を見ることはなかった。 【途中略】 翌日。二日続いた雨はすっかり止んで、眩い太陽が世界を明るく照らす。いつもと同じように畑にやってきた二人だったが、その服の色は違っていた。 原因は二日続いた雨。泥土が剥き出しの地面を歩いてきた二人の足元は、家を出る前にソクラスが予想した通り、泥で茶色く汚れている。上衣の裾も泥が跳ねてくっついており、洗うのに苦労しそうだ。少し先のことを考えて苦笑いしたソクラスの隣で、アオイが泥に足を取られ顔からすっ転んだ。 昼。昨日と同じ木の下で昼食を摂っていた。メニューは卵とじゃがいものサラダをロールパンに挟んだサンドイッチと、昨日のミルク煮のあまりだ。料理上手なソクラスが作るだけあって、味は文句のつけようがない。 美味しい昼食とは対称的に、今の二人の格好は、畑に着いたばかりのころよりも酷い状態だった。裾が汚れたくらいで済んでいた足元は、今や太ももあたりまで茶色いしみが広がっている。最初のころは汚さないよう気を使っていたソクラスも、アオイが転んだあたりから諦めが出てきて、今では負けず劣らずといった具合だ。 「アオイ、上衣を脱いでください。下は諦めますが、上衣だけでも川で洗ってきます」 昼食を手早く済ませたソクラスに言われて、泥に塗れた格好でいるのが苦痛だったアオイは、頷いて上衣を脱いでソクラスに手渡した。 「ゆっくり食べていてくださいね。何かあれば、すぐに私を呼ぶように」 「わかった」 石鹸を手に、川へと歩いていくソクラスの背中を見送って、ロールパンにかぶりつく。「おいしぃ」と無意識に言葉が口を突いて出た。 ロールパンを食べ終わってから、腰布に挿していた小瓶を取り出す。先日、この場所で拾った小瓶を、アオイはどう扱ったらいいのかわからないでいた。 (持ち主の人、探してないかな) 心配をした時だった。突然「こんにちは」と背後から声をかけられ、驚いたアオイが小瓶をぎゅうと握りしめ振り返る。 そこには一人の少女が立っていた。ニイナやノンナと同じ年頃の少女は、アオイと同じ黒髪で少し癖があり、青緑色の瞳が優しく笑いかけた。 「こ……こんにちは」 此処での生活で一度も出会ったことのない少女に、おそるおそる返したアオイに対し、少女はニコニコと微笑みながら「何してるの?」と聞いてくる。アオイは戸惑いを拭いきれぬまま答えた。 「ご飯、食べ終わって、休んでた」 「そっか、今お昼だもんね。どんなご飯だったの?」 「今日、は……卵と、じゃがいものサラダを、パンに挟んだやつと、ミルク煮、です」 「うわぁ、美味しそう! ねぇ、私にも少し分けてくれない?」 「え、あ……ごめんなさい。二人分しか、なかったから……もうないの」 チラッとバスケットを見て答えたアオイに、少女は「なんだぁ。残念」と心底残念そうに肩を落として、すぐに表情を変えた。 「無いなら仕方ないか。あ、私はオルガって言うの。よろしくね! えっと」 「わ、わたし、アオイ」 たどたどしく名乗ったアオイに、オルガは微笑む。笑顔が素敵だなとアオイは感じた。 「アオイ! 素敵な名前ね。……あれ? その手に持っているのって」 「こ、これ! 知ってるの? もしかしてオルガの?」 アオイが手のひらに乗せた小瓶を、オルガと名乗った少女はまじまじと見つめて、首を横に振る。 「ごめんなさい。私のじゃないし、見たこともなければ知らないわ」 「そっか……」 「持ち主を探しているの?」 オルガの言葉にアオイは頷いて、昨日此処で拾ったこと、誰のか分からずに持ち歩いてしまっていることを話した。オルガは時折小さなリアクションを挟んで、アオイの話を頷きながら、批難することも否定することもなく聞いてくれた。アオイが此処へやってきてから、今まで出会ったことのない人物ではあったが、話していくうちに少しずつ警戒が解けていく。 「なるほどね。……いいこと思い付いた! あなたさえ良ければ私も持ち主を探すの手伝うわ」 「え、本当に?」 このまま一人で持ち主を探さねばならないのかと、気が遠くなるような気持ちのアオイにとって驚きの一言で、同時に頼もしい仲間ができたと嬉しくもあった。 「本当よ。ね、ちょっと小瓶を見せてくれる? もしかしたら何処かに持ち主のヒントがあるかもしれないわ」 そう言ったオルガの左手が、アオイの持っている小瓶に伸びた瞬間。 突如、アオイの目の前に光が伸びてきて、オルガの左手を勢いよく弾かれた。あまりに一瞬の出来事で、二人とも驚き、互いに距離を取る。弾かれたオルガの左手の甲から、白い煙が上るのを目にしたアオイは、重ねて驚く。 対するオルガは、光の伸びてきた方向を睨みつけるようにして振り返る。視線の先にはフードを被った一人の女性が立っていた。 「探す必要はない。それは私の落とし物だから」 女性にしてはやや低めの声が響いて、女性がアオイを背にオルガの前に立ち塞がる。アオイからは女性の表情は見えないが、オルガの表情を見るに二人が友好的な関係ではない、ということは見てとれた。突然の出来事にばくばくと鳴る胸を、小瓶と一緒にぎゅうと握りしめる。そんな中、弾き飛ばされた左手を庇いながら、オルガが口を開いた。 「……だ、そうよ。アオイ。持ち主が名乗り出てくれて良かったじゃない! じゃあ、私は失礼するわ。またね!」 全く痛がる様子を見せなかったオルガは、目の前で起きていたことをまるで気にしていないような、場違いなまでの明るい挨拶をして森へと消える。突如目の前で起こった出来事に、反応を返す間もなく茫然と見送ったアオイにとって、オルガの行動は大きな驚きと少しの恐怖を芽生えさせた。 沈黙の後、女性が振り返ってアオイに視線を合わせるように膝を折る。フードのせいで目元はよく分からなかったが、アオイに対して敵意がないことは直感的に理解できた。 「驚かせてごめんさない」 圧の抜けた謝罪に、アオイが言葉もなく頷く。 「私の落とし物を、あなたが拾っていてくれて助かったわ。可能ならば返してもらえると嬉しいのだけど、ダメかしら?」 アオイは女性に視線を向けたまま首を横に振り、差し出された手の上にそっと乗せる。触れた手が温かくて、目の前の女性が本当に存在しているのだと認識した。同時に先程の暴力的な行動に及んだのも彼女なのだと、息を呑む。 と、人の気配が近づいて来たのに二人は気がつく。フードの女性がさっと踵を返したのを、慌ててアオイの声が追った。 「あ、あのっ」 森の方へと足を進めていた女性が、立ち止まって少しだけ振り返る。フードのせいでやはり表情は読めなかった。 「私、アオイ。あなたの名前、教えて」 「……アーシュラ」 「アーシュラ。また、会える?」 問うたアオイの声に、背中を向けながらアーシュラと名乗った女性は答える。 「あなたが望むのなら、いずれは」 消え入るような小さな声だったが、アオイにはしっかりと聞こえた。森へと消えたアーシュラを見送った頃、ソクラスが戻ってくる。 「戻りました。遅くなって申し訳ありません」 存外に泥汚れが頑固だったようで時間はかかったが、晴々とした顔を見るに無事に洗濯は終わったらしい。 「アオイ? どうかしましたか?」 振り返ったアオイの青い瞳がソクラスを捉えた。ソクラスが居なくなり、戻ってくるまでの出来事が、頭の中を駆け巡る。先程までのオルガとアーシュラとのやりとりも、昨日この場所で小瓶を拾ったことさえ、何もかもが夢のような。現実へと引き戻されたような感覚。 「ううん……なんでもない。ちょっと、眠いかな」 実際、頭の中を整頓しきれていないアオイにとって、眠いというのはあながち間違いではなかった。少しだけ、頭を休ませる時間が欲しい。 「少し眠ったほうがよさそうですね。小屋からシートを持ってきます。待っててください」 踵を返したソクラスを見送り、森へと振り返る。先程までの出来事はなんだったのか。誰かに問いたくても時間を共有したオルガもアーシュラも、目の前の森へと消えて行ってしまった。 (……アーシュラの手、温かかった) 触れた右手を眺めて、その瞬間を思い返す。瞬間の温もりだけが、たしかに彼女が此処にいたのだと証明していた。 「アオイ。シートをひくので、こちらで寝てください」 「あ……うん。ありがとう」 何が本当なのか分からなくなりそうな頭を、やっと休められるとアオイが安堵した時。 口にはしなかったが、ソクラスもまた、アオイの異変に気がついていた。 ◆ ――コツ、と人の歩く音がして目を開く。視界は真っ暗で、明かりを求めて視線が空間をさまよう。どこにも光はなく、闇だけが広がっていた。 (誰? 誰かそこにいるの?) 足音のした方に顔を向けるが、人の気配は感じない。耳を澄ませると、足音が遠くなっていくのがわかって、不安が押し寄せてきた。暗い部屋のどこにいるのかもわからない『私』は、硬い板の上に四肢を固定されていて、思うように身体を動かせなければ声を出すことすらできない。 (待って、お願い。お願い、灯りを……! 何も見えないのは怖い。自分の置かれた状況が知りたい、誰か) じわりと涙が滲んで、頬を濡らした。拭おうにも身体が動かせない。もどかしさを感じた時、ハッとする。 (この感じ、前にも……まさか、あの時の、夢?) 三日ほど前にみた、物静かな恐怖に悲しさだけが伝わってきた夢と、今の状況が同じなのだ。加えて、灯りがあった前回とは違い、本当の闇が支配する状況に目眩すら覚える。 (どうして? なんで同じ夢をみてるの? もうこんな夢、みたくないのに!) 置かれた状況に対する疑問と嫌悪で、心がぐちゃぐちゃに掻き回されて、今にも叫び出しそうになった。裏腹に、喉はかふかふと息を吐くことしかできない。 そうこうしているうちに、音も途絶えて、不安が募る。 (お願い、早く目が覚めて! 気がおかしくなりそう!) ぎゅっと目を瞑る―― 「はっ」 光が瞼の裏に散ったと思った瞬間、意識が水の底から引き上げられるかのような感覚に襲われて、目を見開く。見慣れた木目が視野いっぱいに広がる。呼吸は荒く、背中には汗をびっしょりとかいていて、服が張り付き気持ちが悪い。 ゆっくりと起きあがって両手を見た。握って、開いて、自由に動かせることを確認する。息を整えながら四角い窓を見上げると、月が見えて少しだけ気持ちが和らいだ。 「……なんで」 呟いて足元を見ると、月明かりに照らされて、影ができていた。 (光がある。影もある。うん……大丈夫) もう闇だけの世界ではない、自分は目覚めたのだからと。自分にそう言い聞かせて、室内履きに足先を通すと、月明かりを頼りにキッチンに向かう。 ダイニングテーブルの上に置かれたピッチャーの蓋をとり、食器棚から取ったコップに水を注ぐ。トポトポと響く水の音が現実にいる、夢は終わったと教えてくれているような気がした。 その後、喉を潤してからベッドに入ったが、また同じ夢を見るのではと考えると、恐怖でなかなか眠れなかった。やっと眠りに落ちたのは陽が昇り始めた頃。だが一時間と経たずして、顛末を知らないソクラスに「朝だ」と起こされてしまう。 アオイは眠さと必死に戦いながら朝食をたいらげ、畑へと向かった。普段と比べてあくびの回数や、目をこする回数の多いアオイにソクラスは気がついていて。畑に着いてすぐに木陰で休むように言い、アオイも素直に応じた。シートをひいて、自分の上衣を掛け布団がわりに横になる。普段なら眠ることなど考えられない時間帯であったが、この日は横になるなり瞼が重くなった。 ――暗闇を照らす灯り、木製の長テーブル、金属製の何かに反射している光。全てが見覚えのある光景。足音が近づいて来るのがわかった。だがこことは違う、別の部屋の扉を開けた音がする。ちりちりとした金属音のあと、カチャっという鍵の外れる音。閉まる扉は木製なのか軽く、再度鍵のかかった音がした。続けて、人の話し声がくぐもって聞こえ、ガタガタと何かがぶつかり合う音がした。 (嫌だ! 聞きたくない!) その部屋でこれから何が起こるのか。知らないはずだったが、考えるよりも先に『私』は心の中で叫んで―― 息を吸いながら飛び起きる。視界に明るく、眩い世界が飛び込んできた。呆然と、浅い呼吸をしながら焦点を合わせる。ふと、人の気配を感じて横を見ると、心配そうな表情のソクラスと目があった。 「アオイ? うなされていましたが、だいじょうっ」 言いかけたソクラスの胸に飛び込んで、頭を押し付ける。不安よりも安心が勝り、涙こそ出なかったものの、喉が渇いて声を出すことすら苦しい。 突然の行動に驚いたソクラスも、アオイの様子を受け入れると抱きかかえるようにして、小さな背中を規則的に優しく叩く。しばらくそうしていると、アオイの呼吸が落ち着いて服を掴んでいた力が弱くなった。 「怖い夢でもみましたか?」 小さい身体が強張り、間を空けてゆっくりとアオイが頷く。 「大丈夫です。あなたは今、現実に居ます」 ソクラスの優しい声に、冷えきった心が和らいでいくのがわかった。もう大丈夫だと、安心していいのだと、何度も確かめるように、ソクラスの服を掴んでは握りしめる。 「今日は、もう帰りましょう。作物の収穫はできました。あとは後日、どうとでもなります。今はあなたの体調のほうが大切です」 そう言ってアオイを抱えたソクラスが立ち上がり、シートを片手で器用に折り畳む。物置小屋にシートを置き、収穫した作物が入った小さなバスケットを、アオイに持たせて帰路に着く。 それが昼前の出来事だった。小屋についた後、アオイはベットでこんこんと眠り、夜になっても起きる気配はなく。ソクラスは安心して眠れているのならと、起こすこともせずに夜が明けた。 翌朝。一晩寝ても夢をみなかった、大丈夫だったと安堵したアオイを嘲笑うように、その日の夜にまた夢をみた。 ――人の気配のない中、燭台の灯りが揺れるだけの静かでいて、見えない恐怖が周囲を這いずり回るような夢。不気味ながら、ずっと静かな時間が続いた為か『私』は夢をみていてもなんとか我慢できていた。 (大丈夫、ただ炎が揺れてる……それだけだもの) 『自分』に言い聞かせるように、心の中で繰り返し呟いてると、隣の部屋からがたがたと音がした。壁を隔てた向こう側から、震える女の子の声が聞こえる。 【一部略 グロ・残酷表現含む】 その日からアオイは、眠ることに恐怖を抱くようになり、眠れない夜が増えていった。原因はあの恐ろしい夢をみたり、みなかったりする為だ。 夢をみる時間帯も夢の内容も、完全にランダム。みる夢はどれも不気味で恐ろしく、飛び起きてしまうような内容ばかりだった。何もない真っ暗で音も聞こえない空間に寝かされているだけの時もあれば、遠くで物音がしたり、ただ部屋を蝋燭が照らしているだけの時もある。 一番酷かったのはあの悲鳴の聞こえた夢で、何度もみては吐き気をこらえながら目を覚ました。悲鳴の聞こえた先で何があったのかは分からない。けれど悲痛な叫びは、聞くたびに心を裂かれるような思いになった。 緊張で身体を強張らせながら飛び起き、眠った気がしない夜を過ごすことに疲れたアオイは、ぼーっとしていることが常となっていた。いつものお話しをねだることもなくなり、日中のあくびや浅い眠りが増えた。 ソクラスもさすがのアオイの様子に、毎日共に行っていた畑に連れ出すことはなくなった。畑を休む日を増やし、たまに行ったときも早めに戻ってくるなど、アオイの体調を気遣った生活へと変わっていった。 休みがちになったアオイの代わりに、イオリやニイナ、ノンナがよく畑仕事を手伝うようになって、次第にアオイは家に一人でいることが増えた。 そして七日後の夜。 (またあの夢だ) 空気を呑んで、揺れる燭台を見る。暗い部屋に置かれた唯一の灯りは、たった一つの希望のようだ。 そんなことを考えていると、どん、と重たいものが落ちた音がして、あの悲鳴が聞こえた。反射的に身体が跳ねて、呼吸が浅く、荒くなる。その間もずっと悲鳴は聞こえていた。悲鳴は徐々に、言葉とも悲鳴とも区別のつかない、音へと変わる。 (何? 何がおきているの? 何故泣いているの? 何があったの? 誰が泣いてるの?) 混乱気味に目を瞑り、頭を横に振る。こうしていれば起きられることを知っていたから、そうした筈なのに。 (何で? 目が覚めない! どうして?) 鍵を開ける音が、泣き叫ぶ声に混じって聞こえ、足音がした。ゴトゴトと、重たいものを引きずる音が足音に混じって、こちらに近づいてくる。 (誰か来る! 怖い! 助けて、お願い……ソクラス!) 心の中で叫ぶが、無情にもドアの開く音が部屋に響いた。自分の喉から「ひっ」と空気が漏れる音が耳に届く。重たいものを引きずる音と足音がこちらに向かってきて、右隣で止まった。 恐怖で目が開けられない。小刻みに震えていると、人の気配が近づいてきて、そっと頭を撫でられた。大きく身体が震えたが、撫でられるうちに気がつく。 (この手……私、知ってる) 何故こんな怖い夢によく知った人物が出てくるのか、何故彼の居た先で悲鳴があがったのか。考えれば考えるほど謎は深まったが、撫でる手の優しさに甘えるように『私』は目を開けた。 「……あ」 そこには返り血を浴びた男が立っていた。 【一部略 グロ・残酷表現含む】 アオイは、テオの住むガーランドの小屋へと、流したボトルを追いかけるようにして川を下っていた。途中、水車小屋を見送り、畑へ向かう支流へと差し掛かったときだった。 行手を遮る支流を、真っ直ぐ進むためにかけられた橋に、誰かが座っている。最初の頃こそ遠くてよく見えず、声をかけることを躊躇ったアオイだったが、近づくにつれてその足は早くなって行った。 「オルガ!」 名前を呼ばれたオルガが、水面を見つめていた視線をアオイへと移すと、感情のなかった表情がふわりと緩む。腰掛けたまま手を振ったオルガに、アオイも手を振り返し、橋へと駆け寄る。靴を脱いで、川につけていた足を上げたオルガが、声をかけた。 「おはよう、アオイ。まだ朝早いけど、一人で出歩いて大丈夫なの?」 問うたオルガに、アオイは複雑な表情を見せながら「大丈夫」とだけ答える。明らかに『大丈夫』ではない返答に、オルガは口元を押さえて笑い「そういう事にしておくわ」と靴を履きながら返した。 「オルガこそ、一人で何してるの?」 「朝の空気を楽しんでいるの。静かで、澄んでいて、素敵よね。アオイは? こんな朝早くからどこへ行くの?」 「……テオ兄の、家」 アオイの押し殺したような声に、オルガは「ふぅん」とだけ答える。少し考える様子を見せて、黙り込んでしまったアオイに笑顔を向けた。 「私も一緒にテオの家まで行っていい?」 「えっ?」 アオイからすれば唐突な声かけに、オルガは構わず続ける。 「久しぶりにテオに会いたいし、顔も見たいの。まぁ、テオが私のこと覚えているのかは、分からないけど……ダメかしら?」 正直、今はとても複雑な気分で、一人で静かに向かいたいと思っていたアオイだったが、オルガの言葉を聞いてダメとは言えなかった。静かに頷いて「いいよ」と小さく返すと、オルガも小さな声で「ありがとう」と返した。 それから二人は、互いに一メートルほど距離を置いて、前をオルガ、後ろをアオイの並びで歩いた。道のような開けた場所の朝靄はだいぶ収まって、朝陽が直に差し込んでくる。手で陽を遮りながら歩くアオイと、眩しげに目を細めるオルガの二人が、言葉を交わすことなく歩いて行く。 やがて畑へ向かった支流が、本流へ合流する橋の前に来て、オルガが口を開いた。 「逃げたくなるほど、いやな夢だった?」 「えっ」 アオイが立ち止まり、顔を上げる。「なんで知ってるの?」とアオイが口にする前に、オルガは「分かるよ」と視線を落とした。 「私も同じだったから、アオイの気持ちは、分かる……信頼している人に裏切られるのは、辛いよね。苦しいし、悲しい。何より心が痛い」 その言葉を聞き、険しい表情で言葉なく視線を落としたアオイに、オルガは構わず話を続ける。 「どうしたらこの気持ちから解放されるのか、この状況を打破できるのか。私もいっぱい考えたわ。すごく迷って、何度も挫折しては立ち上がって……やがて一つの答えを見つけた。それからは気持ちが軽くて、今、とても清々しい気分なの」 胸元に握った手を寄せて言ったオルガに、アオイが顔を向ける。それはテオに言われた解決法とはまた別の『今』を変えるための方法なのかと、一筋の光のようにも聞こえた。 「……私もそうなれる? どうしたら、いい?」 潰れそうな声でアオイが聞く。涙声を押し殺したせいか、喉の奥が痛かった。 「もう、どうしたらいいのかわからない。あの夢は、なに? オルガは、この気持ちと、さよならする方法を知ってるの? 私、もうこんな気持ち、捨てちゃいたい。なかったことになって欲しい……なんでもする。だから、」 ぼろぼろと溢れてくる涙を拭うこともせず、感情のままに気持ちを吐き出す。一人で多くを抱えることは、幼いアオイにはまだ難しかった。 「教えて」 オルガの言葉を無視してテオの元へ向かい、夢のことを相談するのがテオへ対する筋だと理解してはいた。けれどどうしてもやりきれない、信頼していた人に裏切られたという思いも強く残っていた。故に、今後のことを考えたくないと強く思う自分がいたのも、また事実。 「それはね」 もしこのジレンマから脱却できるのならば。本当にそんな方法があるのならば。なんでもいいから縋りつきたい、助けて欲しいと心のどこかに願いがあった。 「そんな都合のいい方法は存在しない」 二人は声のした方向、橋の向こう側に視線を向ける。そこにはフードを被った女性が立っていた。女性は真っ直ぐ足を進め、二人に近づいてくる。 「アーシュラ……!」 アオイが零して、オルガの目が僅かに揺らぐ。前を歩いていたオルガが少しずつ後退り、アオイと同じ位置に立った。アーシュラは構わず橋を渡り、二人の手前、二メートル程のところで止まる。 「彼女の話には耳を貸さず、早くテオのところへ行くべきよ」 「な、なんでっ、そんなことっ」 真正面から見上げた、フードから覗くアーシュラの目を、アオイは初めて目にした。強く、真っ直ぐな金色の瞳に、心臓を射抜かれたような気持ちになり、息を呑む。 対するオルガはアーシュラを強く睨みつけると「耳を貸しちゃダメ」と小さく告げ、アオイを後ろ手に庇った。 「人の選択肢を奪おうとするなんて、酷い人。彼女には知る権利と、選ぶ権利があるわ」 「さっきも言ったでしょう。そんな都合のいい方法は存在しない。つまり、この問答自体が不毛よ」 「そんな事はないわ! 私はアオイの力になりたいだけ。あなたは、困っている人のこと、簡単に見捨てられるって言うの?」 アーシュラが呆れたようなため息を付く。次の瞬間、アーシュラは大きく踏み込んで、オルガへと手を伸ばした。目にも留まらぬ速さでアオイを庇う右腕を掴むと、なんの戸惑いもなく、本来曲がる方向とは逆に曲げた。耳を塞ぎたくなるような嫌な音がして、オルガが悲鳴を上げる。 「いっ⁉︎ あぁあっ!」 左側へと、右腕を庇い後ずさったオルガに駆け寄ろうとするアオイの右腕を、アーシュラが掴む。その手はたった今、オルガの腕をへし折ったとは思えない程に優しく、だが振り解けない程度に力加減がされていた。 「やめて! 離してっ!」 ぐいぐいと右腕を引っ張るが、まるでびくともしない。そのままアーシュラの後ろに腕を引かれて「うわっ」と声が出た。 「あなたっ、後で、絶対……後悔、するわよっ」 顔を歪ませ、痛みに耐えながら告げたオルガに、アーシュラは「そうなるといいわね」と強い口調で返す。二人のやりとりはアオイにとっては不穏で、心が揺さぶられる。 「アオイ……また、会いましょう……その時に、続き、話すわ……!」 「あっ、待って! オルガ!」 右腕を庇ったオルガの背中は、見送りの言葉を告げるよりも早く、まだ朝靄の晴れていない森へと溶けていった。 【途中略】 一日はさんで十六日目。朝ごはんを作るテオのもとにボトルが届いた。差出人はニイナとノンナの連名。内容は見慣れたもので『今日のお昼頃、そちらに行きます。小屋と畑、どちらに向かえばいいかお返事ください。お昼は持参します』と書かれている。 テオはスープの火を止めると、リビングに置かれたチェストの一番上の引き出しを開けて、便箋とタグを取り出した。チェスト上に置いてあったインクとペンを手に取り、さらさらと返事を書き上げる。 『今日は畑に行く予定です。小屋から続く道を使って来てください。気をつけて テオ』 紙をくるくると丸め、先程やってきたボトルに入れる。コルクで栓をして、タグを結びつけたボトルを手に、テオは外に出た。小屋のすぐ側を流れる川にボトルを流すと、意思を持ったようにボトルが下流に流れていく。それを見送ったテオは小屋に戻り、朝食の準備に戻る。しばらくして朝食が出来上がった頃、二人から返事が来た。 『では畑に向かいますので、どうぞよろしく。今日は入れ替わってアオイを驚かせたいので、秘密にしてね』 「まったく、あの二人らしい遊びだな」 笑いを含んだため息が、テオの口から漏れる。ユリウス以外、見分けることが難しい二人が入れ替わるというのだ。アオイの混乱は相当だろう。 (意地は悪いだろうが、ここは二人にのってやるか) 密やかに決意したテオが手紙をしまうと、まだ幸せにまどろんでいる寝坊助を起こすために、ベッドルームへと足を運んだ。 ◆ 昼前。ユリウスの小屋を出た二人は、テオの住むガーランドの小屋へ向かうため、支流で浅い川沿いに東へと向かっていた。天気のいい、いつもの道、いつもの景色。ただ二人の様子はいつもとは少し違っていた。アオイを驚かせるために互いに化けていたので、今の二人は少しだけチグハグだった。 「ちょっとニイナ、もっとゆるい雰囲気出さないとノンナにはなれないよ」 「そうねぇ……えーと、コンニチハ。アオイ、ゲンキカシラ? こんな感じ?」 「あまり厳しい評価は下したくないのだけど、全然似てないわ」 ニイナに化けたノンナに言われて、ノンナに化けたニイナが頭を抱える。 「うー……これ提案したの私だけど、結構難しいわね。ノンナが私になるのは完璧なんだけど、私には何が足りないのかしら? 女の子らしさとか?」 「私になるための観察力じゃない? 私はいつも大好きなニイナのことしか見てないから」 「そう言うの、昔いた世界ではシスターコンプレックスって言うそうよ」 呆れた様子の『ノンナ』が言って頭を抱える。この世界に来てから常々、双子の妹であり、姉でもあるノンナの姉妹愛には驚かされ、時にはひいたりもした。けれどもノンナの行動原理の全てが「大切な人といつまでも一緒にいたい」という純粋な気持ちであるからして、ニイナも完全に突き放すことはできないでいるのが現状だ。 (でも、そこまで思われるのも悪くないって思ってる私もいるし……それこそ私だってノンナの事、大好き。愛してる。ずっと一緒にいたいって思ってるのも) 横を歩く『ニイナ』を見ると目が合って、ニコリと微笑まれる。『ノンナ』も同じように笑って返した。 (事実、なのよね……困ったなぁ) 満更でもない『ノンナ』が再度、『ニイナ』に視線を向けた時。森から『ニイナ』を掴もうと手が伸びている事に気が付いた。 「ノンナ!」 「えっ? きゃっ⁉︎」 急に『ノンナ』に肩を押され、尻もちをついた『ニイナ』が目を瞑ると同時に、何かが川に落ちた音がした。 慌てて立ち上がった『ニイナ』が川の方へ視線をやると、人影が二つ。一人は『ノンナ』で、水飛沫をあげながら『ノンナ』に馬乗りになっている女に対して、必死に抵抗している。 もう一人の姿を見た瞬間、『ニイナ』の動きが止まった。 【途中略】 小屋まで戻ってきた四人は、まず『ノンナ』をベッドに寝かせると戸締りを始めた。窓がきっちりと閉まっているか、アオイと『ニイナ』が手分けして確認する。その間にテオは手紙を三通書くと、ボトルに入れて川に流しに出て行った。 昼だと言うのに、手には火の灯ったランタンを手にしている。これは異形除けの火と呼ばれる、異形を寄せ付けない守りの火だ。小屋の外に灯っている全ての火は、この異形除けの火となる。 無事に戻ってきたテオがキッチンへと向かうと、アオイがケトルでお湯を沸かしていた。ダイニングチェアが一脚ないのを見て『ニイナ』が『ノンナ』の側にいることは、すぐにわかった。テオがハーブを何種類か選んでブレンドする隣で、アオイはこぽこぽと音を立て始めたケトルを見つめていた。 「ねぇ、ノンナに何があったの?」 カタカタとケトルの蓋が揺れる中、テオは少し考えた様子を見せた。 「何か、よくない事があったのは確かだ」 「……ごまかさないで、テオ兄。ちゃんと答えるって約束したよ。あれは嘘だったの?」 テオが顔を上げる。湯気がケトルの口から湧き上がった。「そうだな」と眉を寄せたテオが、重い口を開く。 「俺の予想だけど、あれは異形のモノの仕業だ」 「イケイノモノ?」 頷いたテオが、火を止めた。 「異形のモノ……通称、異形は、言ってしまえば俺たちの敵だ」 「敵?」 「ああ。普段、護人と精霊の力に支配された場所には姿を現すことはない。けど、守りが薄い場所に潜んだ異形のモノは、迷い込んだ幼子を喰ってしまうことがある」 「何を、食べるの?」 湯気の落ち着いたケトルの持ち手を、ミトンで掴んでハーブをブレンドした器に移す。白い湯気が立ち上るのと一緒に、ふんわりと甘い香りが漂った。 「異形は、俺たちの行動や記憶を喰べるんだ。前に話したこと、覚えてるか? 俺たちは昔、食事で維持する肉体で個を保っていた。今は、食事を摂ることによってできる、殻によって個を保っているって」 「うん。怪我の話をしたときに、聞いたよ」 器に落とされたお湯が少しだけ色づいたのを確認して、茶漉しを通して七人分のカップに注いでいく。 「昔は、肉体が俺たちの行動や記憶を包んで、個を維持していた。この世界では肉体の代わりに、殻が行動や記憶を包み、個を保っている。なら……もし、その殻がなくなったら?」 「殻が、なくなったら……」 アオイは必死にその時の会話を思い返す。肉体がある時は、肉体を襲う耐え難い痛みや苦痛があった。けれど肉体があるから個を維持できて、肉体が終わりを迎える事がない限り、その世界の人々とのお別れはなかった。 『肉体があったころなら肉体が死んでた。けど、今の俺たちなら……』 肉体が迎える『死』の先のこの世界には、二度目の『死』が存在する。体を覆う『殻』の消失。それは、つまり。 「消えてしまう」 アオイの言葉に、はちみつの瓶を手にしたテオが「ああ」と頷いて、目を瞑った。アオイの背中には、嫌な汗が噴き出ている。 「殻がなくなったら、俺たちは、存在が消えてしまう。つまり、二度と同じ個として存在することは、ない」 テオの言葉に、アオイは息を呑んだ。『消えてしまう』という事は、テオはテオとして存在することは二度とないし、アオイもアオイとして存在することは二度とないと言うこと。つまり完全なる個の消失を意味する。 「待って。ノンナ、いなくなっちゃうの? 私、そんなの絶対いや!」 「俺だって嫌だし、受け入れられない。だから今、助けを呼んだ……大丈夫。二人はずっと、一緒にいられる」 涙を浮かべながら上衣に縋ったアオイに、テオは視線を合わせて優しく語りかけた。 「今、一番つらいのはノンナだ。ノンナのために俺は、俺にできる限りの事をしようと思ってる。アオイは、どう思う?」 落ち着いた声色がアオイに冷静さを呼び起こす。そのテオの冷静さが移ったかのように、涙を拭った。 「うん……私、負けない。ノンナと、みんなとずっと、一緒にいる。……けど、テオ兄。どうしてノンナがつらいって言うの? 襲われたのって、ノンナじゃないの?」 「え? あー、実はな……」 少ししてアオイの口から素っ頓狂な声が漏れた。「全然わからなかった」と驚いた様子のアオイに、「俺も、言われなきゃ気がつかないよ」とフォローを入れて。 「さ、そろそろみんな集まってくる。俺はダイニングを整えるから、アオイは、お茶をノンナに持っていってくれるか? 熱いから気をつけて」 アオイは、淹れたてのハーブティーの入ったカップが二つ並んだトレイを受け取って、慎重にベッドルームの方へと歩いて行く。その背中もまた、頼もしくなっていて、テオは少しだけ口元を緩ませる。だが直ぐに真剣な顔になり、ダイニングテーブルの上を片付け始めた。 「ニイナ、入っていい?」 いつもよりトーンを落としたアオイの声に、俯いていたノンナは顔を上げた。ベッドルームとリビングを仕切る麻布の下から、小さな足が覗いている。 「ええ。大丈夫よ」 声をかけると「おじゃまします」と言って、アオイが顔を出した。ふわりと、アオイの手にしたハーブティーの香りがベッドルームに広がる。手に持ったトレイを差し出して「テオ兄が作ったんだよ」と笑うアオイに、ノンナは複雑な気持ちを抱いていた。 「あの、私……本当はニイナじゃないの。あなたを驚かそうって、ニイナと一緒に考えて……混乱させてしまって、ごめんなさい」 「あ、謝らないで! 最初は、どっちが本当のニイナか、わからなくなっちゃったけど、今はわかってる……ノンナだよね?」 頷いたノンナに、アオイはベッドサイドテーブルにトレイを置いて、カップを差し出した。ハーブの香りが鼻をくすぐる。 「ありがとう、アオイ。……いい香り。気持ちが落ち着くわ」 よく香ると、甘い香りの中にレモンのようなパッキリとした香りも混じっている。カップで一回、くるりと円を描いたノンナがハーブティーに口をつけた。 「……ジャスミンね。美味しい」 険しかった表情が途端にほぐれたのを見て、アオイの顔も綻ぶ。二人とも、しばし無言でハーブティーを啜り、沈黙する。静かな空間を破ったのはノンナだった。 「ニイナは、私を庇って異形のモノに襲われたの」 状況を述べたノンナの言葉に、アオイの肩が揺れた。けれど何を言うこともなく、ノンナの言葉を待つ。 「私が、もっとちゃんとしていれば、ニイナはこんな事にならなかった……私が悪いの。私が、喰われていれば、ニイナは助かったはずなのに」 「だめっ!」 部屋に響いたアオイの声に、俯いていたノンナが顔を上げる。ノンナの目に映ったアオイの顔は、燃えるような怒りに満ちていて、今にも爆発しそうな力強さがあった。 「ニイナはそんなこと望んでない! 大好きなノンナのために、ニイナはできる事をしたんだよ? だから、そんな……悲しいこと言っちゃだめ!」 アオイの言葉と気迫は、まるで闇をはらう光のように、ノンナの心に突き刺さる。 (そう……そうだわ。あの時、ニイナは諦めなかった。なのに、私が諦めてどうするの? 此処で私が下を向いていたら、ニイナに怒られちゃうわ) 目を瞑ったノンナが、一人頷いてアオイに顔を向けた。その表情はどこか力強く、希望に満ちている。 「アオイの言う通りね。私が此処で下を向いていても、事態はよくはならない。私はニイナにもう一度、会いたい……絶対に諦めないわ」 「! ……うん! 私も、ノンナと同じ気持ちだよ」 暗い気持ちを払拭し、二人で笑い合っていると、ベッドルームの仕切りが開く。テオが顔を出すと、続いてユリウスが入ってきた。 晴れたノンナの表情とは対照的に、ユリウスの表情は芳しくない。それもその筈だ。朝、笑顔で挨拶を交わし、見送った幼子が、変わり果てた姿になっているのだ。平常心を保つ方が難しいだろう。 「……ノンナ、怪我は?」 落ち着き払った声色だが、微かに震えていた。 「私は大丈夫。ニイナが庇ってくれたから」 「……そうか」 重い息を付いたユリウスが、顔を上げる。 「一先ず、ノンナが無事でよかった。……ニイナには、後でお礼を言わないと、だね」 頷いたノンナに対して、ユリウスは影を持ったままの顔で微笑む。ニイナと向き合う覚悟を決めたノンナとは、立場も違うユリウスには、色々と考えなければならない事があった。今後のことを思うと、とても楽観的な態度ではいられない。 「アオイ、ノンナ。ちょっといいかしら? こちらで何があったのか、話を聞かせて欲しいの」 ユリウスと一緒に来ていたであろうイオリが顔を出して、二人はハーブティーの入ったカップを手に、ベッドルームを出た。出て直ぐに「今はそっとしておいてあげて」と囁かれ、二人は頷き、テオの用意した木製の丸椅子に腰掛ける。クッションがなかったので、少しだけおしりが痛かった。 「さて、と……ノンナ。辛いだろうけど、何があったのか、話してもらえる? 悪いけど、私たちも何がおきたのか知っておかないと、今後の方針が立てられないの」 イオリの言葉にノンナは顔を上げて、真っ直ぐにイオリを見据えると、何がおきたのか話し始めた。 いつも通り、二人でガーランドの小屋を目指して、川沿いの道を東へ向けて歩いてた。いい天気、いつもの道に、いつもの景色。 いつもと違ったのは、二人が入れ替わっていたということ。ノンナの真似が下手なニイナの話をしつつ歩いていると、突然ニイナがノンナを押して、襲いかかってきた異形のモノと川へ倒れ込み、取っ組み合いを始めた。力量としては五分五分といったところだったが、異形のモノの放った黒い靄にニイナが包まれてしまい――。 「それから、ニイナが倒れ込んで、動けなくなりました。私は彼女を背負って、畑に避難して……二人と共に、ここに来たんです」 深刻な表情で腕を組んで静かに聞いていたイオリが、小さな声で「そんな事が」と言って、頷く。 「話してくれてありがとう。助かるわ。辛いことを思い出させて、ごめんなさい」 「いいえ……私は大丈夫。ニイナが大変な時に、私だけ下を向いてたら、それこそ後でニイナに怒られちゃいますから」 その言葉に、イオリが眉を下げて笑った。 「ノンナ、成長したわね」 ノンナは首を横に降り、隣に座るアオイに笑いかけて、イオリに目配せする。 「強い味方が隣に居てくれるから、です」 イオリが隣に居るテオを見た。テオはそれに応え、緩く笑い、頷く。 「そっか。……なら、私たちも前を向かなきゃダメね」 「やる気があるのは良いけど、あまり暴走しないでくれよ」 「なによぉ! テオくんめ。いつから私にお言葉できるようになったのよぅ!」 食ってかかるイオリに対して、テオはため息を付くと「そういうところだよ」と呆れたように言った。イオリは納得いかないようで、さらにたたみかけている。そんな二人を見て、ノンナとアオイも顔を見合わせて笑った。 それから半刻程して、ガーランドとソクラスが顔を出した。ガーランドに続いて顔を出したソクラスに対して、アオイはすぐにノンナの後ろに隠れるようにして、身を潜めた。「会いたくない。顔も見たくない」と遠回しに言われているような状況に、周囲には気まずい空気が流れる。 だがベッドルームから出てきたユリウスの存在が、状況を変えた。事は深刻なのだと、ユリウスの表情を見れば誰にも理解ができたからだ。 テオに促されて、護人の面々がダイニングテーブルを囲むように座る。テオがお茶を出して周り、ノンナとアオイは壁際へと、丸椅子を移動させた。最後にテオが丸椅子をひいて、アオイの隣に腰掛ける。全員が席に着いたところで、ガーランドが口を開いた。 「状況説明ができる奴、いるか? いたら説明してくれ」 「……言うと思った」 呆れた様子のイオリが手を挙げて、ノンナから聞いたことをそのまま繰り返した。ノンナを庇ったニイナと、異形のモノが川で取っ組み合いになり、ニイナが黒い靄に包まれてから動けなくなってしまったこと。 押し黙り、たまにハーブティーに手をつけてはカップを置いて、一通り聞いた三人が顔を見合わせる。最初に口を開いたのはユリウスだった。 「正直に言うと、ニイナの状況はかなり悪い。ニイナを繋ぎ止めるための殻がだいぶ削り取られて、霧散しかけている。……このままだと消えてしまうかもしれない」 「……異形はニイナに何をしたんでしょうか?」 ソクラスの問いに、ガーランドが顎髭を撫でながら「憶測の域は出ないが」と返す。 「喰っちまったんだろうな。ニイナの『起きる』って行動を」 ガーランドの言葉に護人たちの顔が曇る。事態がよくないことは、テオやノンナには十分理解できていたが、アオイは首を傾げた。テオの服の裾をひいて、小声で疑問を投げる。 「行動を食べるって、何?」 「異形のモノは幼子を喰べるって話、したよな?」 「うん」 頷いたアオイに、テオは丁寧に説明を始めた。 「アオイはパンやマッシュポテトを食べると、美味しいし、お腹がいっぱいになるよな? それと同じで異形のモノは食事として、俺たちの身体や記憶、時には行動を喰べてしまうんだ」 「身体を、食べる……? そんなこと、できるの?」 「俺たちには無理でも、異形のモノにはできる。そして『ごちそう』なんだ」 ごちそう。その喜ばしい響きが、こんなにも恐ろしく感じる日が来るとは思わなかったアオイは、俯いてテオの上衣をぎゅっと握る。 「もし、食べられちゃったら?」 「例えば、の話だ」 身体の一部を喰べられてしまったとする。仮に足だとして、歩けなくなってしまい、行動に制限ができてしまう。けれど時間はかかるが回復するため、そこまで大した問題ではない、とテオは説明した。 「問題は、記憶や行動を喰べられてしまった場合だ」 アオイが顔を上げる。テオの表情は険しく、怖いと感じるほどの気迫があった。 「記憶を喰べられてしまえば、取り戻せない限り、記憶を失ったままになる。誰が誰なのか分からなくなったり、過去の出来事を思い出せなくなる。同じように、行動を喰べられたままになってしまえば、喰べられた行動を取り戻さない限り、永遠にできないままになる」 「じゃあ、ニイナは……!」 「……今回のニイナの場合は『起きる』という行動を、食べられてしまった。ニイナの行動を喰った異形のモノを討伐して、ニイナの『行動』を取り戻さないと」 「ニイナが起きることはない」 テオの言葉を、ユリウスが引き継いだ。視線を下に落としたまま、低い声で言ったユリウスは、いつもとはだいぶ様子が違う。 「……僕は、あんな思いしたくはない……!」 ユリウスが顔をあげ、席を立つと、ガーランドを除く全員の表情が険しくなった。唯一、アオイだけが進んでいく話について行けず、テオの服を掴んだまま聞いていた。 「ちょっと、ユリウス! 落ち着いて。今は昔のことを嘆いてる場合じゃないでしょう?」 「いいや! これはあの時の再現なんだよ! 現にあの時と同じ事が起こっているじゃないか!」 「ユリウス!」 ソクラスが焦った様子で声を上げた。冷静さを欠き、虚ろな瞳でソクラスを見たユリウスは、何を返すことも無く、ベッドルームへと歩いて消えた。ベッドルームへと続く麻布が揺れて、十数えた頃。何も言わずに一連の流れを聞いていたガーランドが、ハーブティーを口にしてから背もたれに寄りかかった。きし、と木材の擦れる音が響く。 「奴さんは少し放っておくとして」 「ガーランド! あなた、いつもそうやって傍観を決め込んで!」 立ち上がったイオリを手で制したガーランドは、視線をノンナに移すと、空いた席に座るように促した。大人しくダイニングチェアへと移動したノンナを見て、ガーランドは「さて」と話を続ける。 「ユリウスの言い分もわからん事じゃない。だが、今回はノンナが一緒に居た……そうだろ?」 ガーランドに聞かれて、ノンナが肯定する。 「ヤツの顔は見たか? または髪や、その他、身体的特徴なんでもいい。わかる範囲で教えてくれるか?」 その言葉にノンナが口元を固く結んだ。言いたくないと、行動で示している事が誰にでも理解できた。 だが、事は想像以上に深刻だ。一個人の感情を優先させている場合ではない。誰しもがそれを理解していたが故、ガーランドのかける緩やかな圧を、止められはしなかった。 「…………よ」 「……?」 よく聞こえたなかったと、首を傾げたガーランドに対して、ノンナは睨みつけるような表情を向けた。憎くて憎くてたまらない。普段は穏やかなノンナが、そんな負の感情を剥き出しにしている。珍しいなどと呑気に構えたガーランドだったが、ノンナの口から飛び出た言葉に背もたれから背中を浮かせた。 【続きは冊子でお楽しみください】